仏教美術は日本を代表するジャンルの一つであり、ここに画かれた仏画、経典について
釈文(コメント)を、さっちんさんより、お寄せいただきましたので参考にしてください。
  尚、各画像にもリンクされています。

参考書は(仏像小百科)春秋社 

 優秀賞
「釈迦金棺出現図」

 釈迦如来
 釈迦は二度生まれ変わったと伝えられている。
 父(浄飯王)じょうはんのう、母 王の妃(摩耶夫人)の子として生まれた。

 其の居城(カビラブアストウ)はインド国境に近い現在のネパール領にあった。
 釈迦の誕生は摩耶夫人がお産を実家でするつもりで、里帰りの途中で産気ずいて沙羅双樹の下で産み落としたと
伝えられている。
 我が国では誕生日の4月8日を記念して花祭りが行われている。

 釈迦は生まれて7日目に母摩耶夫人を亡くしている。

 父浄飯王は摩耶の妹を後妻に迎え、釈迦の養育に当てた。
 少年期までは何不自由なく育てられたが、自我に目覚め29歳の時人の一生のはかなさ苦しみ等から逃れる根本的
な道を、模索して修行に出た。

  出家した釈尊は苦しい修行で、肉は完全に落ち骨と皮になり、すさまじい姿になっても釈尊は幾多の誘惑をも乗り
越えて悪魔の誘いを退けた。
 されど自分の限界を知り其れから苦行をやめて里に下り、牛飼いの娘スジャータの介護で体力の回復を測り、
 静かに瞑想を行うのに適した場所を探し(尼連禅河)にれんぜんがを目前にした大樹の畔で悟りを開いた。
 
 其の大樹の名は「悟り」の源語「ボーディ」音写されて菩提となり、菩提樹となる。
 釈尊は其の郊外でかっての苦行仲間であった5人の修行僧(五比丘)びくに向かって初めて法を説いた。
 
 この事を「初転法輪」と言う。それ以来釈迦一族や有力な修行者達の参入を得て次第に成長して行った。
 大富豪の長者からも広大な土地を寄進され、此処は祇園精舎と呼ばれた所である。

 晩年は布教活動を高弟に任せ 隠居生活をし80歳を過ぎた
或る日従兄妹の阿難や ごくわずかの弟子を伴って説法の旅に出た。旅の途上

鍛冶工「チュンダ」が差し出したキノコ料理で中毒を起こし 息を引き取った。其処も
満開の沙羅双樹の林の中であった。この本覚思想なるものを源に向かって行けば

 「生死(輪廻)即涅槃」と言う「空」思想に裏付けられた超絶逆転的な発想法にぶっつかる。
 空を簡単に説明すると 「分別を離れた」と言う辺りに落ち着くのでしょう。


 
 薬師如来
 仏教では、私達凡俗は(むさぼり 怒り 無知)の3毒に犯されている重病人であり 、仏は 私達の病を治してくれる
医者であると言われています。
 ですから何も薬師如来だけが「薬師」である訳では無いと言う事になるのですが、薬師如来にはそう言われるだけの
 際立った特徴パワーが備わっているのです。

 まず薬師如来は「現在仏」であり、しかも現世利益を司ると言う事になっている。

 正式の名は「薬師瑠璃光如来」と言う。
 薬師は「医者」と言う事で 昔は医者の事を「クスシ}薬師と呼んでいました。



 大日如来
 大日如来は密教の世界の中心にいる仏様です。
 仏様と言うのはこの宇宙に一 体どれ位居る事になっているのか、全く見当も付かない程、まさに無数と言って構わな
いほど居るとされています。
 大日如来はこの無数の仏様の中の王者であると言う事になっています。

 修験道の世界の中心に居る仏様もやはり大日如来と言われています。
 普通の如来は頭はちょりちょりの螺髪(らはつ)で衣は飾らない事になっていますが、大日如来の頭は髪を高く結い上
げ、大きな宝冠をかぶっています。

 上腕には、「ひせん」手首には、「わんせん」胸には「瓔珞」(ようらく)を垂らしています。
 こうした形は普通は菩薩形と言って、菩薩のものなのです。

 ただ大日如来は全く違った性格の如来であり、多数の如来を統合する、いわば王様とも言うべき如来である事から、
わざと世俗の王の様な形にしたのかも知れません。 

 手の形も如来らしからぬ姿形をしています。
 1つは法界定印(ほうかいじょういん)で左の掌の上に右手の甲を乗せ両手の親指の先を軽くくっつける形をしています。
 もう1つは智拳印と言うもので少し違います。

 猿飛佐助や雲隠れ才蔵等が忍術を使う時に巻物を口に咥えながらする手の形です。
 法界定印は胎蔵曼荼羅 智拳印は金剛界曼荼羅の印と言う様にきちんとした原則があります。
 従って印を見たら、どちらの曼荼羅か直ちにわかると言う仕組みになっています。



 弥勒菩薩
 未来仏としての弥勒菩薩・・ガンジス川の中流にある聖都バナーラスの出身とか南インドの生まれであるとか言われ
ています。
 やがてマイトレーャ(弥勒菩薩)は釈尊からお前は我が亡き後 56億7千万年の後この世の竜華樹と言う樹の下
で悟りを得て仏となるであろう、と言う予言を授けられました。

 其れまでの間遥か上空の兜卒天(とそつてん)釈尊もこの世に生まれるまでは此処にいらっしゃった事になっています。
 ・・とそつてんで56億7千万年の寿命が尽きるまで、そこで教えを説き続けて居ると考えられています。

 弥勒菩薩像の中に大変特徴的なポーズを取っているのがあります。
それは、半か思ゆいと言うポーズです。

 はんかと言うのは 片足だけを組んだ座り方の事を言います。
一方 思ゆい、と言うのは考える事です。
 何を考えるかと言いますと 「如何にすれば衆生をもれなく救う事が出来るか」を考えているのです。

 弥勒来迎は、まだまだ先の話と言う事になりそうです。


 
 文殊菩薩
 この文殊菩薩も実在の人物らしいです。
 釈尊が入滅された後、南インドから出て来た人らしいのですが、大乗仏教の経典、特に三弾般若経典と言われる。
 一群の経典の中では、釈尊の優秀な弟子であるとされています。

 インドでもかなり古い時代から、文殊菩薩は知恵に長けた人物として、尊敬を受けて居りまして学問僧が論書を
著する時等、先ず最初に文殊菩薩に帰依している例が数多く見られます。

 3人寄れば文殊の知恵と言う諺にもなっています。

 文殊菩薩は永遠の昔から、大菩薩であったと言う話が多くの経典の中にも説かれています。
 釈尊が過去世において、未だ子供で有った時、此れを指導したと言われています。
又過去に現れた全ての仏は、文殊菩薩のお陰で仏になる事が出来たのであり、従って文殊菩薩は全ての仏の父で
あり母であると、言われています。

 全ての仏の師匠でありながら、しかも尚、あえて仏とは為らない、つまり成熟しないと言う決意を持って、
菩薩として修行に励んでいる。

 わかり易い姿は、右手に利剣、左手に経典を持ち獅子の上に乗っている。



 普賢菩薩
 文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍として、釈迦三尊を、構成している。
 普賢菩薩が文殊菩薩と対になっている事には、其れなりの理由がある。

 先ず文殊菩薩が般若、つまり知恵を代表する菩薩であるのに対して普賢菩薩は、修行を代表する菩薩である。
 「華厳経」によれば普賢菩薩は十の大願を立てたとされている。
 
 其の十願(普賢行願)は次の通り。
 (一) 禮敬諸仏「らいきょうしょぶつ」 
 (二) 称讃如来
 (三) 広修供養
 (四) 懺悔業障(ざんげごっしょう)
 (五) 随喜功徳 
 (六) 請転法輪
 (七) 請仏住世
 (八) 常随仏学 
 (九) 恒順衆生 
 (十) 普皆廻向(自らが得た全ての功徳を、全ての衆生にふりむけ、其の安楽と成道を願う事。)

 文殊菩薩の知恵は、普賢菩薩の業によって裏打ちされている、すなわち両者が相まって、大乗仏教の理想が表されると
言う構造になっている。

 普賢菩薩は六牙の白象に乗っていると言われている。



 虚空蔵菩薩
 この菩薩の知恵と功徳は、虚空のごとく広大で有ると言う事だけは確かです。

 菩薩経には、虚空蔵菩薩には其の神通によって、娑婆世界を浄土に替える事が出来、又虚空蔵菩薩を念ずれば、
億持不忘(絶対に忘れない)の力を得る事ができると説かれています。

 又虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)を修すれば記憶力が増進するともされている。

 虚空蔵菩薩は胎蔵曼荼羅の虚空蔵院の主尊ですが、密教では金剛界の五佛のブァリエーションとして虚空蔵菩薩
を5人揃え、五大虚空蔵菩薩とし、富貴を得、天変を除く祈願を行うときの本尊としています。



 不動明王
 教令輪身(きょうりょうりんじん)・・まともに正法を説いても無駄で、どうしようもない煩悩の虜に為っている衆生を教化
する為に、憤怒の相でもってともかく屈服させ、しかる後救済する為の身体の事・・・で其の真実の本体である大日如来
の命令(教令)に因って現れた身体である為、教令輪身と呼ばれているのです。

 不動明王が教令輪身であり、大日如来の命令を受けて、人々の煩悩を断ち切るために奔走する・・そして一方、
不動明王は自ら誓いを立てて、如来の召使であり使い走りでも何でもこなすのである,とも言われています。

 如来に対してだけでなく、他の行者に対しても奉仕し、行者の食べ残しを戴くとも言われている。

 そこで明王は大日如来の使者とも言われています。
 どんなにくだらない事でもきちんとやる明王。
 そもそも憤怒の相自体が、慈悲の心の裏返しであって方便であると言えます。

 右手には、剣(この剣は煩悩を断ち切るための剣)この剣を「利剣」と言う。
 左手にはけん索、これで煩悩をきりきりと縛り上げる為の縄です。

 次に迦楼羅炎が光背なっています。
 迦楼羅と言うのは、神が乗り物としている大きな鳥の事で、金じ鳥とも呼ばれ孔雀と同じく、毒蛇(龍)を好んで食べると
言われ、此の迦楼羅(がるら)が羽を広げた格好をしている炎が、迦楼羅炎です。

 煩悩と言う毒蛇の様な物を食い滅ぼして仕舞うと言う事を象徴しているのです。
 2人の脇侍は召使のコンガラ童子とセイタカ童子です。



 五大明王
 不動明王は大日如来の化身でありますが、阿夙(シュク)如来を始めとする。
 他の四仏も其々の化身としての、明王を持っている。

 そこで五智五仏がそっくり其の侭明王となった、五大明王と言う物が考えられて、五体を1箇所に纏めて安置する事も、
広く行われた。

 其の配置の仕方は次のとおり。
 先ず中心は不動明王、大日如来の化身ですから、中心に来るのは当然です。
 其の左(向かって右)前方に、金剛界曼荼羅の降三世会(ごおさんぜえ)の主尊である降三世明王が来ます。
 そして右前方には、軍茶利(ぐんだり)明王、右後方には大威徳明王が、左後方には金剛夜叉王が来ます。

 不動明王を取り巻くこれらの四明王は、いずれ劣らぬすさまじい、憤怒の相をし顔も目も手も、その数に多くの
バリエーションが有り、ます。

 簡単に特徴を述べますと、降三世明王は四面八ぴ像が圧倒的に多く又、足元に大自在天(シブァ神)と其の妃「烏摩」を
踏みつけている。

 左右の第一手を、胸の前で小指どうしを、絡みつかせながら、クロスさせる独特の降三世印を結んでいる。
 軍茶利明王はどくろの冠をいただき、手首に赤いへびを巻いています。
 大威徳明王は水牛に跨っている。
 ただし金剛夜叉明王は、他の明王に比べて、此れと分かる目立った特長は無い。



 愛染明王
 愛染明王は起源の良く分からない明王で、愛染の言語がラーガで、元々染付け、色付けを意味していますが、やがて
愛着とか執着に変遷する。

 ラーガの漢訳語として、貧(とん)貧欲ですが愛着と染付けを合体しますと愛染という言葉も出来上がります。
 又ラーガと言うのは赤を意味します。

 そう言う所為か、愛染明王像は身体の色の赤い物が多い様に思える。
 明王も多くは弓と矢を持っています。
 この矢が当たったら愛に目覚める?

 さて煩悩の代表格の貧欲を体現している愛染明王が、どうして明王かと言うと実は煩悩が其の侭菩提(さとり)である事、
つまり煩悩即菩提と言う考えを表す為である。
 現に愛染明王は仏の知恵を表す、金剛菩薩の化身である事になっている。



 孔雀明王
 インドの国鳥となっている孔雀が明王化したものです。 
 尤も明王と言っても女性です。
 其処で仏母(ぶつも)大孔雀明王と言う漢訳源語が用いられる事もある。

 インドでは孔雀と言うのは、コブラ等の毒蛇を好んで食べる有難い鳥であると信ぜられている。
 インドの歳時記では、雨季の到来をいち早く告げ恵みの雨を呼び込む目出度い鳥であるとされている。
 
  そこで孔雀は災厄を除き、雨をもたらす神として、尊敬されて来た。
 其れが仏教では孔雀明王となったしだいです。
 と言う訳で孔雀明王は息災と祈雨の為の秘法を修する時の本尊とされている。

 普通は孔雀に乗っているが、胎蔵曼荼羅では孔雀の羽を持った形で図像化されている。



 阿弥陀如来
 奈良時代から平安までは薬師如来が人気でしたが人々の意識も変わり、真実や正義がすたれ、末法の世の到来
と言う危機感から、人々はこの世では無くあの世に於ける幸福を強く願うようになった。 
 そこで来世に於ける幸福を約束してくれる、阿弥陀如来に圧倒的な人気が集まった。

 「阿弥陀と」言う言葉の直接の言語は余り、はっきりとはしていません。
 阿弥陀如来には無量寿如来と無量光如来と言う二つの別名がある。

 無量と言うのは「測り知れない」と言う意味ですから、阿弥陀如来は「計り知れない生命力を持つ如来」と「測り知れ
ない光に満ちた如来」と言う意味の別名を持っていると言う事に為ります。

 「阿弥陀如来の来歴」
 漢訳の大無量寿経によれば、 数え切れない程の遥か昔 錠光如来と言う名の如来がいました。
 この如来を第1代として、第53代目に「世自在王如来」と言う如来がこの世に現れました。
 この世自在王如来の教えを聞いたある国王が深く道心を起こし、自らの国を捨て王位を捨てて、修行僧(比丘)びく
になり「法蔵」と名乗りました。

 法蔵比丘は、修行して悟りを開いた暁には、自らの仏国土を建設しようと決意をしました。
 そして其の仏国土は、あらゆる仏国土の清浄な荘厳を全て備えた物でなければならないと考えました。

 そこで世自在王如来は二百一十億にものぼる数の仏国土の有様を法蔵比丘に、つぶさに見せました。

 法蔵比丘は其れから実に五劫(こう)の間みずからが建設しようと思っている仏国土に、どの様な清浄な荘厳を採用
しようかと考えに考え抜きました。
 此の事を「五劫思ゆい」と言います。
 劫と言うのはインドの時間の単位の中の最大のものです。

 表し方は区々ですが、仏教で用いられるたとえ話ですと、「磐石 劫のたとえ」と言うのがあります。
 数キロメートルの巨大な石があるとします。
 百年に一度天女が空から舞い降りて其の薄くて柔らかい衣でほんの少し、さらっと撫でるとします。
 
 こういう様なペースで 其の巨大な石が磨り減って、無くなってもまだ一劫は無くならないと言います。
 落語の 寿限無は殆んどの人が聞いていると思います。
 
 此処に出てくる「五劫の擦り切れ」は此の磐石劫の例えと法蔵比丘の「五劫思ゆう」から来た物です。
 さてこの様に長い間考え抜いた末、法蔵比丘は又再び世自在王如来の所へ行き、有名な四十八願を開陳しました。

 修行してそれらの大願を成就し悟りを得た時に、最高の清浄な荘厳を取り入れた仏国土が実現すると言う訳です。
 そして遂に法蔵比丘は、大願を成就し悟りを得て阿弥陀如来となり、極楽と言う名の素晴らしい仏国土を建設し
 其処の教主となりました。

 なお五劫と言う余りにも長い間ひたすら「思ゆう」していた為法蔵比丘の髪は随分伸びたと考えられ、頭髪の部分が
以上に大きい「五劫思ゆう仏」と言う仏像も制作されています。

 阿弥陀如来は娑婆世界を去ること十万億土の西の彼方に極楽浄土の教主として,衆生救済の活動に専念している、
 現在仏であると考えられています。
 


 梵天
 文法的には、中性と言うことになっていて何か抽象的で冷たく、とっつきにくく、考えにくいと言う感じを免れません。

 さて、ブラフマー事梵天は、宇宙を創造する最高神となり、おびただしい数の神々の最高幹部会の議長の役割も
努めると言うまさに黄金期を迎えたのです。
 そしてこの梵天の黄金期は、釈尊が仏教を開かれてから、大乗仏教が開かれ、確立されるまでの時期にぴったりと重
なっている。

 梵天は此の時期に仏教の中に取り入れられて居るのです。ですから梵天は仏教の中では仏や菩薩よりも低い位置に
おかれているとは言え、諸々の天の中では矢張り最高のしかも堂々とした風格を備えた天として、扱われています。
 仏教の中に出て来る梵天の話として、尤も重要なものは、梵天勧請(かんじょう)の話です。

 悟りを得られた釈尊は自分が悟った真実を世の人々が、果たして理解してくれるだろうか?せいぜい誤解するのが
関の山、ではないだろうかと言う不安を覚え、自分が悟った真実は、誰にも伝えずただ自分だけの胸の内に仕舞って
置くのが、一番良いのでは無いだろうかと、考えられた。

 此れを察知した梵天は、それでは此の世が滅んでしまうと言う危機感を抱き、世間に向かって法を説いてくれる様に
釈尊に懇願した。
 此れが梵天勧請と言う話です。
 梵天の懇願に耳を傾けた釈尊は、此の懇願を受け遂に法を説く事を決意されたと言う。
 従って梵天は仏教徒にとっての大恩人であると言えます。
 
 梵天は生まれて直ぐ四方を見回したので、四面になったと言う説がある。
 又梵天は自分の半身から、絶世の美女を作って、それを妻にしたが其の妻が例え一瞬たりとも、視野の外に出る事を
心配して、其の為に四面に為ったと言う話もある。



 帝釈天    
 帝釈天と言うのは、おもにブェーダ文献の中で大活躍する英雄神インドラ神の事です。
 インドラは、しばしば、神々の中の神、神々の帝王と呼ばれ、又そう言う意味でインドラと言う言葉が使われています。
 帝釈天の帝と言うのは、ここに由来すると考えられます。

 先の梵天が登場するまでは、インドラがまさに神々の帝王として、他の神々を圧倒する活躍をしていまして、
 例えばインドの最古の文献である「リグ・ブェーダ」はインドラを讃える賛歌に満ち溢れています。
 
 インドラがそれ程名声をはせたと言うのも、川をせき止めて、世界に害を及ぼしていたアスラ族のブリトラと言う悪竜を、
デーブァ族の期待を一身に受け止め、武勇と知恵を駆使しながら、見事に退治したと言うエピソードの為です。

 其の為インドラはブリトラハン(ブリトラを殺すもの)と言う異名を貰っています。
 英雄神或いは武勇の神、であるインドラ神が用いた武器は、ブァジュラと呼ばれています。

 具体的には稲妻の事で、インドラは此れを投げて、敵を切断する事を得意としました。
 このバァジュラはダイヤモンドをも意味します。
 普通金剛と漢訳されていますが、インドラの武器としてのブァジュラは金剛杵(しょ)と漢訳される事もあります。

 仏教では此の金剛杵は、それが果たしてダイヤモンドか稲妻かは別として、仏教では煩悩をすっぱりと断ち切る力のある
仏の知恵を象徴する言葉として、用いられています。

 仏教が帝釈天を取り入れた頃には、梵天の方が地位が上になっていましたが、それでも、ナンバー1,2の座は確保して
いました。
 ですから梵天像と帝釈天像は、しばしば1対になって安置されています。
 
 帝釈天は此の世の中心に高く聳え立つ須弥山(しゅみせん)のてっぺんの、善見城(ぜんけんじょう)と言う宮殿に住み
四天王を従えていて、帝釈天の乗り物は、アイラーブァタと言う名の象です。



 吉祥天
 吉祥天も弁天も、美女の代表のように言われている。
 浄瑠璃寺に安置されている様な華麗な像として表されている吉祥天は、まさに文字どおり
(目出度い事 繁栄 幸運)を意味する名前を持った、女神を起源としています。

 だいたいのところから言いますと、ブィシュヌ神の妃となったと、されています。
 
 一方仏教では吉祥天は、ブィシュヌ神の子孫である徳叉迦と言う竜を父とし、カ利帝母(鬼子母神の事)を母として
生まれ、毘沙門天を夫とした とも言われている。
 自らの罪を告白し其れによって、罪を滅ぼして貰う儀式のさいの本尊として人気を集めた。



 弁天
 弁天 は現世利益の女神として、此れほど人々の日常生活に密着した、女神は他に見当たりません。

 弁天は時として弁財天とも、弁才天とも呼ばれますが、元々はインドのサラスブァティーと言う女神でした。
 サラスブァティーとは ヒンドゥー教徒達が尊んでやまない第一級の聖なる河の名前でして、一般には此の聖なる河を、
其の侭神格化したのがサラスブァティーであると考えられる。

 尤も此の言葉の中にある、サラスと言うのは、水の事でありまして、此の女神は元々から水の女神従って又豊穣の
女神であったとも考えられる。

 豊穣は又富 財産と言う事にも繋がり、弁天が弁財天、と呼ばれる理由はきちんとある訳です。
 弁天が祭られているのは、必ずと言っていい程水辺に有るのも、うかがい知れます。

 恋人同士で弁天様にお参りするとやきもちを焼いて、二人の仲を引き裂いてしまうと言われています。



 韋駄天
 韋駄天はシブァ神と神妃ウマーの間に出来た子、軍神スカンダを起源とします。
 
 どうして韋駄天かは、やや不明?仏教では火葬された釈尊の遺骨の歯を、俊足の悪魔が盗んで逃げたのを
此の韋駄天が追いかけて取り戻したと、されている。

 韋駄天走りと言う言葉は此処から来た物です。
 軍神スカンダは紀元前4世紀にインド西部を席巻したアレクサンダー大王のイメージから出た神と言う面白い説
もありますが信ずるに足りません。



 四天王
 四天王は大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治したと言う源頼光には渡辺網、ト部季武、推氷貞光、坂田金時、
と言う四人の豪傑の家来が居ましたが、此の4人はしばしば四天王と呼ばれています。

 四天王と言うのは、須弥山(しゅみせん)のてっぺん近くに居て、帝釈天の指揮下で仏教を守護する四人の天の事で、
東に持国天、南に増長天(ぞうじょうてん)西に広目天、北に毘沙門天が配置されています。

                             (2008.6.25)追記
持国天
 持国天の持国と言うのは、国土を支えるものを意味する
サンスクリット語のドゥリタラーシュトラ の漢訳語です。

 大叙事詩〔マハーバーラタ〕に登場する クル国の盲目の王で、敵からも、味方からも深く尊敬され、
愛された正義の王として描かれている。

 又、同じ〔マハーバーラタ〕は 半神族のガンダルブァ(乾だつ婆)ケンダツバの王に、ドゥリタラー
シュトラと言う名前の王が居て、インドラ(帝釈天)に使えて居た事を伝えている。
 現在の所 後の方が 持国天の前身であろうと考えられている。
 はっきりとした結論は出せない。

増長天
 芽生えた穀物を意味するブィルーダカの漢訳語ですが、
どう言うわけか、仏語では、古くから登場して有名な割にはヒンドゥ教の方には全く姿を見せない、
謎の多い守護神です。

広目天
 西方の守護神で、寿命や健康、無病息災を司る仏神。
全てを広く見通す、目を持ち、衆生に賢さを与え、長命且つ壮健な一生を約束する。

毘沙門天(多聞天)
 他の三天に比べ、この毘沙門天は、由来がはっきりとしている。
 毘沙門と言うのは、仙人ブィシュラブアスの子、ブァイシュラブァナの音写語で、
多聞天とも漢訳されている。
 別名をクベーラと言う。

 ヒマラヤのカイラーサ山の中に、アラカーと言う都を造つて優雅に暮している、財宝の神です。
 どう言う訳か中国に伝わる頃には、武勇の神に変身して、我が国では毘沙門天の、毘 の字を
旗印にした上杉謙信等の様に、武将達の信心を集めた。
 四天王の中でも、毘沙門天だけが、単独に祭られている。



 執金剛神(しゅうこんごうじん)仁王
 仁王が二体一対と為ったのが、二王で左が密シャク金剛、右が那羅延(ナラエン)金剛と呼ばれお寺の門の両脇
に安置されています。

 密シャクと言うのは漢訳語で毘沙門天の半神の家来を指します。
 那羅延と言うのは、ブィシュヌ神の別名で有るとされているが、古い時代の文献では、ハッキリしない所が多い。

 仁王像は憤怒の相を以って造られている。
そして一方は口を開け、一方は閉じている。

 口を開けた形は あ形と言いアルファベットの「ァ」を発し、閉じた形は吽形と言い両方合わせて、真実の世界を余す
所無く開陳しているのだと考えられる。 
 
 阿吽の呼吸と言うのは、ここから来た物です。



 水天
 水天と言うのは、ブァルナ神を起源とします。ブァルナ神とはブェーダでは、天則リタ為る物を守護し、
昼夜 季節 歳月に関わる天体の運行が正常であるかどうか、其れから又社会に正義が行われているか
如何かを、厳しくチェックする司法の神として、大変重要な地位にいます。

 此の天則に違反したものは、直ちに捕らえて 水腫病に罹らせてしまうとされている。
 此の水腫病もそうだが、ブァルナ神は始めから水と縁が深く其の住む所も、天水の中だと言われている。
 やがて此の神も没落しただの水の神 海の神になりました。

 水天は安産の守り神とされ、今でも東京日本橋の水天宮は、大繁盛しています。
 尤も此の祭神は平家と共に壇ノ浦に沈んだ幼い安徳天皇だと言う事になっています。

 水に関係が有るから、安徳天皇は水天と一緒に祭られたのでしょうが、それにしても、水天は何処に行ってしまった
のでしょうか?。



 訶梨帝母 (鬼子母神)
 鬼子母神が仏教に取り込まれ安産と子供養育の守り神になった事は、経典には次のような話が 伝えられています。

 釈尊が此の世に居られた頃、鬼子母神(訶梨帝母)は五百人にも及ぶ沢山の子供を持っていたが、
凶暴極まる性格の持ち主で、人の子を見付けては、次々と食べると言う恐ろしい所業をを繰り返していた。
 そこで釈尊は、訶梨帝母の子供を1人こっそりとさらって、隠してしまった。

 訶梨帝母は狂わんばかりに嘆き悲しんで、必死に其の子供を探し廻ったが、何処にも見当たらず、とうとう釈尊の元へ
救いを求めにやって来た。

 其処で釈尊は、五百人も居る子供の中のたった一人が居なくなっただけでこれ程哀しんでいるではないか、
其れならば子供を食われて、殺された母親の心がどの様なものであるのか、良くわかる筈だと教え聡されました。
 此れを聞いた、訶梨帝母は、今迄の行いを深く悔い、仏教に帰依し子供を守る誓いを立てたのだと言う事です。

 訶梨帝母は要するに悪鬼の羅刹女(らせつにょ)なのですが、法華経には 訶梨帝母は十人の
羅刹女と共に「法華経」を説く人々を守護すると言う誓いを立てたと言う話が出てきます。
 それゆえ現在の名前は 鬼子母神となっています。


                                                            私で解かる事は勉強させて戴きます。 さっちん 合掌

  仏尊の種類
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